来日アメリカ人観光客; 『呉/江田島』ガイド

3月29日午前10時頃、『アメリカ テキサスからの観光客に 呉~江田島を案内できないか・・・?』と電話がはいった。偶々空いていたので即座に応諾して呉(中央桟橋)でおちあった。客は夫婦と娘さんの3人。
時刻表をみてジャストタイミングだったので、呉に帰着(15:10)頃まで食事はできない旨了解をとって、フェリーとバス(江田島)で往復した。食事は日本でまだ食べていないという日本蕎麦の店に入った。珍しさと美味さと箸の使用挑戦を楽しんでいた。しかし呉市内(国立病院)見学がまだなので早々に切り上げた。
 呉に来た理由は、旦那のお父さんが、終戦後の進駐軍で呉と江田島に来ていた。奥さんは呉(国立病院)で生まれたという。二人とも親は亡くなっている。しかしその時の話は色々聞いていて是非来てみたかったと・・・。
 道中、感激と感慨と懐かしさに溢れる表情を見ながら案内した。こんな場面にであうことは私のガイド経験では稀有である。
 外国人には、私は何回かガイドしているが、概して自由な発想や突飛な情報などを聞けるので、日本人にガイドする時よりも話が弾むケースが多い。
 ただ、慌てて家をでた時カメラを忘れ、携帯のカメラを使うことも忘れていた。(下は別な時撮った写真)

呉; 国立病院


善意通訳講習会

善意通訳(グッドウィル・ガイド)講習会;      3月12日開催
毎年広島県庁から案内状を受け取って参加している。私の場合、英語と韓国語が同日開催の為、その時の気分でどちらかを選んでいるが今回は韓国語に参加した。
例年会場は、広島では平和公園だったが、今回は宮島だったので、私としては久しぶり島に渡った。
土曜日だったせいもあってか、商店街や店舗の中は観光客が溢れている。あちこちで英語や中国語も聞かれ、ガイドも活躍していた。
それに引き換え、私たちの場合、ただ真面目心だけで、いつも期待外れに少ない来訪客を相手のボランティアガイドを続けていることに哀れを催した。

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呉湾おさんぽクルーズ

 呉~江田島港往復フェリー(乗船時間≒45分)で、呉湾の風景を眺める企画。
対象便は;毎日 呉発 8:35~18:10 の計9便;  この中で毎日曜 12:20、14:22 の2便は、呉観光ボランティア員が見どころガイドをしています。
呉湾からの瀬戸内風景もですが、予備知識として【日本海軍増強を呉周辺の歴史的背景】も念頭おいて眺めれば更に興味深くなります。

http://www.geocities.jp/mystyle700d/my-rekisikan/kure_guide/p_lis31.gif日本海軍増強と瀬戸内(呉湾周辺)歴史的背景
 ◆◇日本海軍創設
 黒船に対し開国の前提として、勝海舟は欧米に匹敵する海軍をもつことを提唱していた。坂本竜馬土佐藩出身で長州藩に与していたが、勝海舟と交わる内に次第に惹かれていった。
 折から『薩摩藩(幕府側)』 対『長州藩』の対立が激化する中、『欧米の強敵を前にして薩長が争っている場合ではない
!!』と、薩長を和解させ、幕府に従順だった瀬戸内の塩飽水軍の水夫等を募って海軍伝習所の開設に奔走していた。

 ◆◇ 明治時代以後の”日本のシナリオ”
 明治時代になると、海軍増強・富国強兵に突き進んだ。 軍事や政治、社会、教育、銀行・・・等、諸制度、文化面も含め・・・欧米の進んだ仕組みを採り入れ、鉄道網を始め、日本中で軍需工場建設、鉱山開発、道路やダム、発電所建設などインフラなどの工事が急ピッチで始まった。 
 ちなみに鉄道は明治5年=新橋~横浜の開通を皮切りに、明治22年=神戸、明治24年=青森、明治34年=下関まで開通・・・明治末44年頃には本州日本海側や九州・北海道を含む日本全土に延伸されていた。  呉には明治19年海軍鎮守府が設定が決まると、明治、大正、昭和初めの瀬戸内海は年を追う毎に軍事色に塗られていった。

 ◆◇鎮守府の開庁
 しかし1886年明治19年)「海軍条例」により全国に四つの海軍区を定め、各海区の軍港に鎮守府が置かれ、1890年(明治23年)、明治天皇臨席のもとで開庁式が行われた。 呉海区は「紀伊半島~瀬戸内海~九州東海岸~四国全周海面を所管した。
 海軍工廠(工場群)も急ピッチで、造船ドックはまっ先に建設された。ちなみに1894年(明治27年)に第1号艦 ”宮古”の起工から、太平洋戦争まで100何十隻もの戦艦が生産された。
   1885年(明治18年海軍兵学校は築地から江田島に移され、後には
世界3大兵学と言われるまでになった。
 日清・日露~太平洋戦争を通して、常に【連合艦隊】の動きが注視される中で、呉鎮守府が主役的な役割を担っていたと推察している。
 併せて言えば、広島にも陸軍の鎮台が置かれ、呉・宇品(広島)港からは、日清、日露、満州事変、日中戦争、太平洋戦争と、半世紀に亘って大勢の兵士が出征していった。


国際交流フェスタinくれ

【国際交流フェスタinくれ】12月20日(日)13:00~ (呉国際交流協会主催)
ビューポート呉で盛大に開催された。開催にあたってはボランティアスタッフとして多くの皆さまがお手伝いしてきたが、私は何の手伝いもせず、国際交流協会メンバーの一人として本番に参加しただけだが、しかし各国からの留学生や呉近辺に居住の外国人も大勢集まり、皆な一緒になって笑顔があふれていた。私もその中にいるだけで結構楽しい気分のひと時だった。
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韓国語でしゃべろう会(한국어로 하는 회 송년회)

12/19(土)at 呉国際交流協会
 ここに参加する女性群は大体、韓ドラにに魅せられて韓国語を始めた人が大半の様だが、皆さん熱心で ”しゃべろう会” にも殆ど毎月欠かさず参加している。。
私の場合は、趣味(旅行、アマチュア無線交信)や仕事上の興味から始めたが、勉強はあまり好きでない。
 しかしそんな皆さんとワイワイ話すのは楽しいし、朝鮮通信使再現行列など、韓国
からも大勢の人が来訪した時など片言の韓国語でガイドすることに興味を覚えるので ”しゃべろう会” には2~3カ月に一回ぐらい参加している。
 今回(12/19土)は忘年パーティ(송년파티)をするから・・と電話で誘われた。
御馳走は全て女性群が全部準備し、私はそれを腹いっぱい食べるだけしか能がないが、先生(韓国人)も交え、韓国を中心とする色々な情報や世間話に花が咲くは、世界も広がるし楽しいひと時を過ごした。

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留学生おもてなし体験バスツアーin呉

~~呉の魅力を世界に!~~
 11/28 呉市の魅力を世界に発信するため、留学生と地元住民を対象としたバスツアーが開催された。(私は観光ボランティア;全コースのガイドとして参加)
◇参加者; 留学生 ≒20名(中国、ベトナム、カンボジア、カナダ、アイルランド、南アフリカ連邦)
    地元住民 ≒20名 
◇コース;呉→下蒲刈(松濤園・白雪楼)→県民の浜(昼食)→みかん狩り体験→
      →御手洗散策→呉  
 外国人留学生は、珍しい日本の文化や、瀬戸内海の絶景、本場のみかん狩りに感激し、皆z随分楽しそうにはしゃいでいた。 地元住民も、留学生たちと片言の会話を試したり、今日はいつになく眩しく輝く【とびしま海道】絶景の海に感激し、ガイド付き見学や、みかん狩りでも留学生たちと一緒に楽しんでいた。
 ガイドとしては、日本人と外国人留学生が半々のグループを限られた時間内に、英語と日本語でガイドするのは・・・、特に歴史説明はちょっと難しかった。
 説明すれば 留学生たちは何でも興味をもち 何でも訊ねてくる、日本人は先を急ぐ、主催者は参加者全体と時間を睨みながらイライラしている・・・。 それらを上手くテキパキと裁く腕前は・・・私にはちょっと未熟・・・!!
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”回天”特攻の島;大津島 (2015-10-20)

 太平洋戦争末期、魚雷に大量の爆薬を搭載し、隊員自らが操縦して敵艦に体当たりするという【特攻兵器 ”回天”】の訓練基地が開設された大津島には、全国から20歳前後の精鋭たちが集まり、毎日厳しい訓練を繰り返していた。
 そして出撃の朝。隊員たちは多くの戦友に見送られながら、湾内に停泊した潜水艦に乗り込んだ。『出向』の合図とともに”回天”を搭載した潜水艦はわずかに白煙を遺し、音もなく進んでいった。
 
昨年【朝日新聞にあった投稿記事】から
 『特攻隊を目指す元予科練だった私は、うれしくて涙を流した。体の芯から燃える熱で、涙が湯になるようだった。オーイ、特攻で死んでいった先輩、同僚たち。「今こそ俺たちは生き返ったぞ」とむせび泣きしながら叫んだ。
山口県防府の通信学校で、特攻機が敵艦に突っ込んでいく時の「突入信号音」を傍受し何度も聞いた。先輩予科練の最後の叫び。人間魚雷「回天」特攻隊員となった予科練もいた。私も何れしぬ覚悟だった。』・・他人の投稿だが、朝日新聞の記事を引用させて貰った。

 ここは、『やまとミュージアム(呉)』、『呉鎮守府史跡』、『江田島海軍兵学校)』、『陸奥記念館(周防大島)』と合わせ【5点セット】にすれば感動が何倍増にもなる
 
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